2008年07月02日

ほおずき 鬼灯 酸漿

ほおずき.jpg
鬼灯と書いて、ほおずきと読むとは知らなかった。
もうすぐ、ほおずき市。

東京の夏の風物詩といえば、ほおずき市。中でも浅草のほおずき市は、全国から観光客が足を運ぶ人気の高いお祭りです。下町情緒あふれるほおずき市、今年はぜひお気に入りの浴衣を着ておでかけしてみませんか?

四万六千日ほおずき市 [7月9日(水)〜10日(木)] 浅草寺

(写真)kitakitsuneさん東京・下町の夏の風物詩「ほおずき市」。この期間にお参りすると「四万六千日分、日参したのと同様の功徳を得られる」との言い伝えがあります。色鮮やかなほおずきと風鈴の音色に癒されながら、浅草寺の境内を歩いてみてはいかがでしょう?

http://matsuri.enjoytokyo.jp/hozuki/


この日に参拝すると4万6千日分の功徳に預かると伝えられています。両日には浅草寺で終日祈祷が行なわれ、ふだんとは違う黄色い祈祷札や雷除けのお札が授与されます。
http://asakusa.typepad.jp/2007/2008/06/7910-2e80.html

毎年、7月9日.10日は浅草観音の「四万六千日.ほおづき市」である。このどちらかの日に観音様にお詣りすると、四万六千日もお参りした功徳があるのだそうだ。四六時(一日)の千日分が四万六千だという説や、お米の一升は四万六千粒にあたり、この日にお参りすると一生無病息災になれるのだという説、また源義朝が石橋山の合戦で敗れ、浅草寺境内に陣したのが七月十日で、その時に集まった軍勢が四万六千騎あったという説など色々ある。
四万六千日の縁日にあわせて立つのが、ほおずき市。観音境内の空き地に約2百軒のほおずき店が並ぶ。よしず張りに裸電球がぶらさがり、ガラス風鈴つきの「千成ほおずき」が売られる。
「千成りほおずき」は、栽培が難しく、その出来不出来は天候に左右されるといい、殆どが江戸川区鹿骨(ししぼね)町で作られている。
入谷の朝顔市と同じように夏の風物詩として人気があり2日間で約60万人の人出がある。
「お富士さまがすむと、今度は、観音さまの四万六千日である。
七月の十日...
盆前のこお暑さ...ことしの暑さの..序びらきを見よとばかりに晴れぬいた空...
ふるるものすべてを、染めあげなければ止まない真つ青な空...
水の匂いのいよ/\濃くなりまさつた空
その空の下に立つ鬼灯市の、せんなり鬼火、丹波鬼灯の束を、かけ稲のようにかけつらねた店で境内は埋められた。そして、暑さにめげない人々は...といふよりも、暑さがつのれば募るほど、逆によけいに意地になり、いろ/\嵩(かさ)にかゝつて来る人出は、仲見世に、仁王門に、本堂の階段にあふれた。...となると、たま/\うかんだ空の雲よりも、すでに参詣をすました人たちの、手に持ち、髪に挿した雷除けのお札のほうが、より白く、より美しく輝いた。
浅草馬道の小学校は、この日をもって一学期の試験を了つた。
といふことは、その晴れぬいた真つ青な空の下に、暑中休暇が来たといふことの、だから四万六千日と聞くと、人こそ知らぬ、いまでもわたくしは子供の時分のそのよろこびを思い浮かべることが出来る。...。
久保田万太郎「浅草風土記」
http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/gyouji/hoodukiiti.html

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ホオズキ(鬼灯、酸漿)は、ナス科ホオズキ属の植物、またはその果実。カガチ、ヌカヅキとも言う。花言葉は偽り。

原産地は東南アジアで、その他に南欧やアメリカ大陸など温帯に自生している。主に観賞用や食用として栽培されるが、野生のものもある。ホオズキは多年草で、草丈は60〜80cm位になり、淡い黄色の花が咲くのは6月〜7月ころ。この開花時期にあわせて日本各地で「ほおずき市」が開催されている。中でも、7月初旬に開かれる東京浅草寺のものは江戸時代から続いており、60万人にのぼる人出がある有名なものである。花の咲いたあとに六角状の萼(がく)の部分が発達して果実を包み袋状になり、熟すとオレンジ色になる。種蒔き、株分けで増やすことが出来るが、ナス科植物との連作障害が有る。アメリカ原産のセンナリホオズキ(Physalis angulata)が日本で野生化している。

観賞用としてのホオズキは、鉢植えやドライフラワーなどに用いられ、その愛好家も多い。果実は、以前はホオズキ人形や口で音を鳴らすなど子供の遊びにも使われていた。食用や薬用としても知られているが、腹痛や堕胎作用があるために多用は禁物である。

日本の仏教習俗であるお盆では、ガクに包まれたホオズキの果実を、枝付きで精霊棚(盆棚)に飾り、死者の提灯に見立てる。

毎年7月9日、7月10日に東京都台東区浅草の浅草寺でほおずき市が催される。

ホオズキの名前の由来は幾つかある。ひとつは果実を鳴らして遊ぶ子供達の頬から、「頬突き → ホオズキ」と呼ばれるようになった説。もうひとつは、カメムシ(古名:ホウ、ホオ)がこの植物によく集まって茎から吸汁する事から、「ホオ好き」より「ホオズキ」と呼ばれるようになったという説がある。なお、ホオズキにしばしば群生するヘリカメムシ科のカメムシは、今日ホオズキカメムシとの和名を与えられている。ホオズキを漢字で書く場合に「酸漿」の他に「鬼灯」とも書く。これは中国語で小さな赤い提灯の事で、ホオズキの実がこの提灯に似ている所が来ており、英名ではそこからChinese lantern plantと言う名がつけられている。


薬効・毒性
平安時代より鎮静剤として利用されており、江戸時代には堕胎剤として利用されている。現在も咳や痰、解熱、冷え性などに効果があるとして、全草を干して煎じて飲む風習がある地方が存在する。

ナス科植物の例に漏れず、全草に微量のアルカロイドがあり、特に酸漿根(さんしょうこん)の部分には子宮の緊縮作用があるヒストニンが含まれている。そのため妊娠中の女性が服用した場合、流産の恐れがある。そのため、堕胎剤としての利用例がある。地下茎および根は酸漿根(さんしょうこん)という生薬名がある。

観賞用 (園芸) 品種
毒性及び苦みがあり食用にならない。
ホオズキは、世界中でその土地の環境に応じて変化し約80種類が分布している。
実の大きいタンバホオズキ、矮性種の三寸ホオズキ
食用品種 ショクヨウホオズキ (Physalis pruinosa)
甘酸っぱく食用にされる。
ヨーロッパでは古くから栽培されていて、秋田県上小阿仁村の特産品。北海道では1995年から由仁町、江別市などでも生産される。旬は秋。袋が茶褐色に変わり中の直径2cmから3cm位の実が黄色くなって食べ頃を迎える。


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浅草寺(せんそうじ)は、東京都台東区浅草二丁目にある東京都内最古の寺院。山号は金龍山。本尊は聖観音(しょうかんのん)。もと天台宗に属していたが、第二次世界大戦後独立し、聖観音宗の総本山となった。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれている。東京都内では、唯一の坂東三十三箇所観音霊場の札所(13番)である。江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。


[編集] 歴史
寺伝によると、創建の経緯は次のとおりである。推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも、この人物の氏名には諸説あり)は出家し、屋敷を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。観音像は、高さ一寸八分(約5.5センチ)の金色の像であると言われるが、公開されることのない秘仏のため、その実体は不明というほかない。その後、大化元年(645年)、勝海上人という僧が寺を整備し、観音の夢告により本尊を秘仏と定めたという。さらに平安時代初期の天安元年(857年)(天長5年−828年とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。これらのことから、浅草寺では勝海を開基(創立者)、円仁を中興開山と称している。雷門や仁王門は天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に創建したとの伝えがあり、この頃に寺観が整ったものと思われる。

浅草寺が文献に現われるのは鎌倉時代の『吾妻鏡』が初見である。近世には徳川家の祈願寺に定められたこともあり、関東でも有数の観音霊場として多くの参詣者を集めた。

江戸時代後半には、境内に「仲見世」の前身である商店や芝居小屋が設けられ、大道芸人が集まるといった、庶民の娯楽センターの役割も果たしていた。そうした傾向は近代以降も引き継がれ、浅草は庶民の盛り場、娯楽場として発達し、浅草寺はそのシンボル的存在であった。明治初期には境内が公園地に指定され、1885年(明治18年)には表参道両側の「仲見世」が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わった。1917年(大正6年)からは日本語の喜歌劇である「浅草オペラ」の上演が始まり、映画が普及する以前の大衆演劇として隆盛した。関東大震災では浅草区は大半が焼失する被害にも関わらず、境内は一部建築物が延焼するだけの被害で済んでいる。しかし、1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲で、旧国宝の観音堂、五重塔などが焼失。太平洋戦争後の浅草は、娯楽の多様化や東京都内の他の盛り場の発展などによって、一時衰退した。しかし地元商店街のPR活動によって徐々にではあるが過去の賑わいを取り戻しつつあり下町情緒を残す街として東京の代表的な観光地となっており、羽子板市、ほおずき市などの年中行事は善男善女で賑わっている。但し夜間(19時以降)における仲見世や六区の閑散さは過去の殷賑ぶりとは隔世の感がある。


[編集] 境内

雷門
宝蔵門
本堂
五重塔
沙竭羅龍王像(原型高村光雲作)
浅草神社雷門−表参道入口の門。切妻造の八脚門で、向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから、正式には「風雷神門」というが、「雷門」の通称で通っている。慶応元年(1865年)に焼失後、長らく仮設の門が建てられていたが、1960年(昭和35年)、約1世紀ぶりに鉄筋コンクリート造で再建された。実業家松下幸之助が浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進したものである。門内には松下電器産業寄贈の大提灯がある。年に一度三社祭と台風到来の時だけ提灯が畳まれるが、2008年の三社祭は宮出しが無いため畳まれない見込みがある。

宝蔵門−雷門をくぐり、仲見世の商店街を抜けた先にある。入母屋造の二重門(2階建てで、外観上も屋根が上下二重になっている門)である。現在の門は1964年(昭和39年)再建の鉄筋コンクリート造で、実業家大谷米太郎夫妻の寄進によって建てられたものである。門の左右に仁王(金剛力士)像を安置することから、かつては「仁王門」と呼ばれていたが、昭和の再建後は、宝蔵門と称している。その名の通り、門の上層は文化財の収蔵庫となっている。

耐震性の向上と参拝客に対する安全確保のため2007年(平成19年)に屋根改修工事を行い、軽量さと耐食性に優れたチタン成型瓦を全国ではじめて採用した。 使用したチタンは表面にアルミナブラスト加工を施したもので、それらをランダムに配置することで土瓦特有の「まだら感」を再現し、瓦と変わらない外観となっている。 また、主棟・隅棟・降棟・妻降棟すべての鬼飾もチタンで製作された。

本堂−本尊の観音像を祀るため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2年(1649年)の再建で、近世の大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、1945年(昭和20年)の東京大空襲で焼失した。現在の堂は1958年(昭和33年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。

内陣中央には本尊を安置する間口4.5メートル、高さ6メートルの宮殿(くうでん、「厨子」と同義)がある。宮殿内部は前の間と奥の間に分かれ、奥の間に秘仏本尊、前の間には「お前立ち」の観音像が安置される。毎年12月13日に開扉法要が行われるほか、特別な行事の際などに開扉が行われる場合があるが、その際も信徒が拝することができるのは「お前立ち」像のみで、秘仏本尊像は公開されることはない。宮殿の左右には脇侍の梵天・帝釈天像、堂内後方左右には不動明王像と愛染明王像を安置する。

五重塔−再建前の塔は慶安元年(1648年)の建立で、本堂と同様、関東大震災では倒壊しなかったが、1945年の東京大空襲で焼失した。現在の塔は1973年(昭和48年)に再建されたもので、鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺き、基壇の高さ約5メートル、塔自体の高さは約48メートルである。基壇内部には永代供養のための位牌を納めた霊牌殿などがあり、塔の最上層にはスリランカから将来した仏舎利を安置している。なお、現在の塔は本堂の西側にあるが、再建以前の塔は東側にあった。現在、その位置(交番前辺り)には「塔」と刻まれた標石が埋め込まれている。

二天門(重文)−本堂の東側に東向きに建つ、切妻造の八脚門である。元和4年(1618年)の建築で、第二次世界大戦にも焼け残った貴重な建造物である。この門は、本来は浅草寺境内にあった東照宮(徳川家康を祀る神社)への門として建てられたものである(東照宮は1642年に焼失後、再建されていない)。現在、門の左右に安置する二天(持国天、増長天)は、上野の寛永寺墓地にある厳有院(徳川家綱)霊廟から移されたものである。

浅草神社(重文)−本堂の東側にある。浅草寺の草創に関わった三人を祭神として祀る神社である。明治の神仏分離以降は浅草寺とは別法人になっている。詳細は浅草神社を参照。

伝法院−宝蔵門の手前西側にあり、浅草寺の本坊である。小堀遠州の作と伝えられる回遊式庭園がある。一般には公開していない。

このほか境内には多くの仏像、記念碑等がある。2005年には秋本治の漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の単行本の発行部数が1億3000万を突破したことを記念する石碑が浅草神社に建立された。これは同作品に浅草神社が登場した縁によるものである。


[編集] 先祖供養
浅草寺では先祖供養も出来る。

霊験あらたかと言われる浅草寺では毎日、家の宗旨と無関係に先祖供養を受け付けている。

毎日、午前6時(10月から3月は午前6時半)、午前10時、午後2時から、先祖供養、厄よけ、等の祈祷が行われる。
特定の個人の名前で受け付ける他、○○家先祖代々、という形でも受け付ける。
志納金は3000円から。


[編集] おもな年中行事
針供養(2月8日)淡島堂で行われる。
金龍の舞−3月18日の観音示現会(じげんえ)、10月18日の菊供養の際、披露される。
三社祭(5月17・18日頃)浅草神社(三社権現)の祭礼であり、東京を代表する祭りとして有名。豪壮な神輿渡御と、「びんざさら舞」で知られる。
四万六千日(しまんろくせんにち)(7月9日−10日)この日に参詣すると4万6千日分のご利益があるとされる。ほおずき市が行われる。
万霊燈籠供養会(8月15日)お盆の先祖供養のためにも営まれている。1体3000円でお願いすることができる。
歳の市(12月17日−19日)毎月18日は観音菩薩の縁日であるが、特に年末の縁日を歳の市と称している。羽子板市が行われる。

[編集] 文化財
二天門(重文)
法華経(国宝)−1951年(昭和26年)指定。
平安時代11世紀頃の装飾経。別名は「浅草寺経」。金銀泥で装飾した「装飾経」の代表作で、『法華経』8巻に『無量義経』『観普賢経』が附属した全10巻が現存し、表紙、軸、巻き紐まで含めて制作当初のままに残されている。東京国立博物館に寄託。
元版一切経(重文)−中国・元時代(明治初期、鶴岡八幡宮より伝来)
六角堂(東京都指定有形文化財)
縁起(東京都指定有形文化財)
その他、江戸時代の絵馬が多数保存されており、中には歌川国芳のような著名絵師の作品もある。


[編集] 浅草寺の発掘

[編集] 考古学上の遺跡としての浅草寺
古代から中世・近世(江戸時代)と長い歴史を有す浅草寺は、考古学上重要な歴史資料をその地下に包含した浅草寺遺跡でもある。戦災で焼失した五重塔再建に先立ち、1970年には再建地点の発掘調査が行なわれ、学術的に貴重な成果が得られた。特にこの調査は、葛飾区葛西城跡の発掘調査や、千代田区都立一橋高校内の発掘調査と並び、それまでの日本考古学では研究対象とされていなかった、中世や近世(江戸時代)の遺跡調査の嚆矢となり、特に近世考古学の出発点となる学史上の記念碑的調査となった。その後も、台東区教育委員会による浅草寺境内及び周辺での発掘調査が地道に続けられ、従来の文献資料研究が描いてきた浅草寺及び浅草の歴史像の、大幅な修正を迫る発見が相次いでいる。



posted by porsche at 14:05 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
突然のコメント失礼します。私は横山と申します。ブログで日記を書いております。

hhttp://www.oyazisaru.com/

あなたのブログ拝見しました。とても素晴らしいブログですね。
すごく良いブログだったので、思わずコメントしてしまいました。また、じっくりと過去の記事なども読ませていただきます。
もし宜しければ相互リンクしていただけるとありがたく思っています。
OKならブログにコメントお願いします。
Posted by オヤジの横山 at 2008年07月04日 01:14
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